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フーチの源流を探して台湾の離島・澎湖島へ飛んでみた話。(その4)

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 このシリーズは、一歩深いスピリチュアルに興味のある方、東洋の不思議に興味のある方、台湾の民俗に興味のある方におすすめです。

 

【今回のポイント】

 

・台湾にフーチが浸透した大きな理由は「阿片」

・阿片毒治療のために活用され受け入れられたフーチ

・台湾のフーチは澎湖島からという仮説を立てる

 

(上の画像は南陽博物館より)

目次

フーチの源流を探して台湾の離島・澎湖島へ飛んでみた話。(その1)

♡ フーチの源流を探して台湾の離島・澎湖島へ飛んでみた話。(その2)※動画有

フーチの源流を探して台湾の離島・澎湖島へ飛んでみた話。(その3)

♡今回⇒ その4

 

 

阿片(アヘン)とフーチ(扶鸞) 

ということで、4回目はちょっと重めのお話です。

 

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学校の歴史でアヘン戦争を習った記憶がある方も多いと思います。当時台湾や清朝を悩ませていた大きな問題、それは阿片(アヘン)でした。清朝の統治下にあった土地の中で、もっとも早い時期から阿片吸引が行われていた場所の一つが台湾だったのです。

 

 

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台灣鴉片史

 

日本と清が戦った日清戦争にて日本側が勝利し台湾が分割譲渡された際、既に台湾では阿片が蔓延していました。日本側は阿片禁止令を出しますが、習慣的に阿片を吸引する人口があまりにも多く、阿片禁止令はなんの歯止めにもならない状態に。そのため日本側は阿片吸引根絶のために様々な方策を打ち出すことになります。

 

 

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まず阿片の民間での製造販売を制限、医薬品として政府による許可製造・専売品としました。さらに、医師の診断のもと中毒者を確定し1代限りの吸引特許を与えるとともに、有料登録制の吸引所(特許薬舗)の設置を行いました。この吸煙特許を与えられた者の数は、最大時でなんと約16万6千人です。 

 

台湾統治と阿片問題 (1983年) (近代日本研究双書)

この辺について詳しく知りたい方はぜひこの本を。

 

阿片が一般的な薬だった時代

元々、阿片には古くから薬として用いられてきた歴史があります。ヒポクラテスやガレノス、イブン・シーナーも薬としての阿片について言及しております。

 

 アヴィセンナ『医学典範』日本語訳

イブン・シーナーはアヴィセンナの事です。

 

ヒポクラテスやガレノスにアヴィセンナの名前あたりは精油を勉強している方にはお馴染みですね。また、錬金術パラケルススはローダナム(阿片チンキ)を鎮痛剤として使用していました。

 

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煙草の登場により人々は、植物の葉の煙を吸引するというという新しい技術を知ることになります。やがてそれは阿片へと応用されていきました。

 

中国で阿片が言及されるのは本草綱目からで、イブン・シーナーと同じく、始めは止瀉薬として使用していたようです。やがて人々に万能の薬として利用されるようになっていきました。おそらく痛みを感じなくさせるからではないかと推測しますが、既に中国では鎮痛剤として附子(トリカブト)がメインで使われていたことから、他の効果の部分をクローズアップしたのかもしれません。(理由については中国の薬物史について不勉強な為確認できていません 汗)

そんな中国に嗜好品としての阿片が大量に持ち込まれたのは清の時代。イギリスの東インド会社による輸出でした。それはやがて歴史に残るアヘン戦争へとつながっていきます。

 

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アヘン戦争・・・学生時代に世界史で習いましたよね。

 

まさか、自分の人生でアヘン戦争に興味を持つ時が出てくるなんて、子供時代には想像もしていなかったのですが・・・。一歩深くスピを理解したいならば、学校で習う知識は本当に大切です。

 

(興味のある方はまず漫画からというのも手) 

 

急激に増えていく阿片中毒者 

この頃、清の人々の間で行われていた阿片の摂取方法は、経口ではなく吸引による摂取でした。

 

youtu.be

これは1902年頃の雲南省を写した貴重な動画です。2:00から阿片を吸引している二人の姿が写っています。

 

 

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右側の人物は酩酊しているのか楽しそうな表情をしているのがわかりますね。 

 

それまでの経口投与による阿片の摂取では腸で吸収されることにより効果を発しました。経口摂取の場合阿片は胃や腸管を経由し、脳の中枢神経に運ばれる間に代謝が行われるため、常習性は生まれるものの、廃人となることはあまり多くありませんでした。

 

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身体依存性を有するため,連用後中断すると,禁断症状が出現する.あへんの乱用は,精神的,身体的依存性を生じやすく,常用するようになると慢性中毒症状を起し,脱力感,倦怠感を感じるようになり,やがては精神錯乱を伴う衰弱状態に至る.

https://www.pharm.or.jp/dictionary/wiki.cgi?%E9%98%BF%E7%89%87

 

一方、吸引による摂取は肺からダイレクトに成分が吸収されることになり、肝臓による代謝が行われることなく脳に働きかけを行います。その結果、脳はドーパミンとエンドルフィンを放出し非常な多幸感をもたらします。ところが耐性形成が早い阿片は、すぐに人を激しい依存状態へと転落させてしまいます。やがて国中に中毒者が溢れ、あちらにもこちらにも廃人が転がるような状態を引き起こしてしまったのでした。

 

阿片は大量の依存者と廃人を作り出していきます。それは台湾も免れることはなく、最大時の許可者が16万人という 状態にまで進んでいったのでした。

 

中毒者が増えるとどうなる?

ちょっと考えてみてください。今の日本に住んでいる私達が持つ麻薬への恐ろしいイメージ、それが全て阿片に当てはまると思ってください。もし、日本が麻薬中毒者だらけの国になっていたら?この国は今のようでいるでしょうか。大量の廃人がいるということは、それを介護し面倒を見ることに手を費やさねばならぬ人々がたくさん必要ということで、つまるところ国を支えることができる人の数が少なくなるということです。農業、工業、全ての産業は停滞し、人々は神経伝達物質の見せる夢の中でただぼんやりとしているだけ。その上、その麻薬は国外からやって来るので、お金はどんどん国外へと流れていきます。(これがアヘン戦争の原因です)生み出すことができないのに、支払いだけが続くのです。国も人々も荒廃し貧困状態に陥るのが想像できますよね。

 

更に、依存患者の問題を考えてみましょう。今、身近にもしも依存者がいたとして。いったいどうしたら依存を断ち切ることができるのでしょう。普通の一般家庭で激しい禁断症状を抑えて断薬させることができるでしょうか。やはり、病院で治療を行うことを考えるでしょう。しかし、大量の依存者と、一方荒廃していく国の状態を想像すると、充分に治療をして回復させることができるだけの医者の人数や病院が存在できるでしょうか。また、治療に要する費用を貧困に向き合う人々が支払うことができるのでしょうか。

 

今の日本でも介護のために仕事をやめざるをえなかった方が、その心身の耐え難い疲労や貧困苦のために心中を図ったなどのニュースが流れることがあります。

100年前の台湾で、人々が想像したような苦しい状況に陥っていたのでは、と想像するのは難しくありません。

 

善堂 の活動と末劫・・治療としてのフーチ

このような状態の社会の中で活動していたのが前回書いた「善堂」という集団でした。

 

この結社は善堂と呼ばれる集団で、市中に溢れかえっていたペストによる死者を集めて埋葬したり、治療を行ったりしていました。出口王仁三郎と親交が深かった紅卍会もそのような結社が発展したものです。

フーチの源流を探して台湾の離島・澎湖島へ飛んでみた話。(その3) - 霊能者 火水ハヌルの全方向スピリチュアル


戦争が起こり、ペストで人々が亡くなり、更に阿片による廃人が家々に転がっている・・・この状態を当時の人々がこの世の終わり「末劫」だと感じていました。

 

「末劫」について、非常に簡単にザックリ言うならば、

(1)この世界に災難と災害が蔓延する

(2)それによって世界中の殆どの人々が死ぬ 

(3)一部の選ばれた人のみが生き残る 

という世界の終末のことで、まるでかつてのノストラダムスの予言や、一時期ブームになったアセンションを思い出すような内容です。

フーチの源流を探して台湾の離島・澎湖島へ飛んでみた話。(その3) - 霊能者 火水ハヌルの全方向スピリチュアル

 

 「末劫」の時を乗り越えるためには、欲得を抜きにして人や世の中に尽くし善を行うことが重要だと考えられていました。そのために扶鸞を行う結社である鸞堂は「善堂」として社会福祉活動を行い、教育活動や救済活動などを行っていました。(ただし全ての鸞堂が善堂であったかはわかりません。)そういった流れの中で、前回書いたペストに蹂躙された人々を助け、埋葬していたのが「善堂」です。

 

 広東地域における善堂の普及には、清末民国初期の社会情勢の中で、一般の宗教結社が慈善活動の展 開に乗り出し、徐々に善堂へと転じたという流れが存在していた。その流れは注目に値するものである。

(中略)

前述の1894年のペストの大流行は、こうした既 存結社の善堂化の勢いをさら強め、また扶鸞の盛行をももたらした。その後、慈善救済という社会的要 請を受け、宗教結社と善堂との結合がさらに進んだ。多くの結社は、扶鸞型の善堂として現れた。

https://ci.nii.ac.jp/els/contentscinii_20181004163501.pdf?id=ART0009678973

 

社会が阿片で翻弄され、鸞堂は阿片毒に侵された人々への治療という形で深く関係を持つようになりました。

 

清朝末期、 扶鸞が台湾へ伝わりました。日本統治時代初期の台湾社会は混乱と不安の空気が漂っており、人々の心を慰め、体を癒やす一種の医院のような役割をも鸞堂は担っていきました。

 

鸞堂の系統の分類

台灣宗教文化地図のによると、台湾の鸞堂は大きく3つに分けられるようです。(これは台湾歴史学者の宋光宇の説に準じた分類ですね)

 

(1)宜蘭の喚醒堂と分出したもの

(2),新竹復善堂系統及び分香したもの

(3)澎湖一新社系統及び分香したもの

 

日本人観光客が多く訪れる台北の行天宮は(1)になります。

 

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國史館臺灣文獻館-電子報より

台湾北部の扶鸞を知る上で重要な鸞手 楊明機 

 

フーチと日本、そして台湾本土、そこへつながる澎湖島

私が最初に扶鸞について調べだした時、最初にたどり着いたのが、澎湖諸島でした。

 

澎湖諸島とは

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澎湖諸島は上の地図の赤いマークの場所。台湾と大陸の間、台湾海峡に存在する90もの島々が集まったエリアです。そのうち人間が住んでいる島が19あり、台湾の澎湖縣に所属しています。行政の中心が置かれる馬公市がある島を澎湖島と呼び、周辺では特に烏賊が多く取れる事で有名な漁業と観光の島です。その地理的な要因から、歴史上台湾本土より早く大陸からのものが流入してくる島であったようです。

 

例えば、台湾最古の寺と言われる龍山寺は1738年ですが、観音様を祀る澎湖観音亭は1696年に澎湖遊撃将軍の薛奎が廟として拡張する以前、明代に既に小さな東屋の形で存在していました。また馬公市の港近くには、台湾で最も早く建立されたという澎湖天后宮という媽祖様を祀った廟があります。

 

1928年生まれの台湾歴史学者の王世慶は、台湾において最も早い鸞堂は1853年創建の澎湖一新社であると認め、高名な楊士芳が宜蘭へと戻りそれを伝え、喚醒堂と碧霞宮を成立させたとしています。

 

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臺大歷史系電子報No.28

王世慶氏近影

 

先程、宋光宇の分類による3分類を書きましたが、鸞堂の系譜を南北2宗に分ける鄭志明の南北宗説では、南宗の始まりを澎湖一新社とし、北宗を宜蘭新民堂としています。

王世慶と鄭志明いづれの説も、澎湖島の鸞堂を台湾における鸞堂の始まりとみなす仮説を立てる根拠になりそうです

一方、三分類を主張する宋光宇は、どこが始まりと明確にいうのではなく、宜蘭が当時の鸞堂の最重要地であったということを主張しているのにとどまっています。

 

これらから総合的に考えてみると、やはり、澎湖島が台湾における鸞堂の始まりと想像していいのではないか?と思えます。

 

歴史を今一度ふりかえれば、1895年の清の割譲による日本への割譲に澎湖諸島も含まれており、ポツダム宣言の受諾により日本の手から離れるまでの約50年間は日本の統治下にありました。台湾の鸞堂の始まりが澎湖島であるならば、日本へと伝わったフーチの源流のひとつが澎湖島であった可能性も・・・・ゼロではないかもしれません。

 

歴史の重みとフーチ 

媽祖さま、観音さま、そしてフーチ、どれも、現代の日本のスピ界隈でも見かけるキーワードです。しかし、ここまで4回に渡って書いてきたフーチ(扶箕/扶乩)の歴史、それは決して、キラキラでもなく、ワクワクでもない、いえ、いっそ真逆。

フーチの歴史を少しづつ知っていく時、そこに人々の必死の思いや血を流す痛み、苦しみ、すがる願い、そんなものをひしひしと感じるような気がしました。

 

それだけでなく、漢字で書く扶箕や扶乩に対して、カタカナで書かれたフーチという言葉の持つ軽さを思わせました。それはまるで上澄みを掬って楽しんでいるだけの、子供がするような神様ごっこを大人がしているかのような深みの無さと軽薄さ。

 

そうは思いつつも。

 

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気軽お手軽に、誰かの言った言葉や訳したものを読んで、知った気分になっている私も、結局は同じなのです。

 

それでも、行こうと思いました。行って、その伝統の場所にせめて立ってみようと思ったのでした。例え、澎湖島に行っても、あくまでも、私は単なる旅人。お客様でしかないけれども。せめて、その風に吹かれ空気を吸ってみたい。

 

 

そんなわけで、6月の一週間、澎湖島へと飛んで行ったのでした。

 

 

 

 

・・・・・・ その5へ続く。

 

 

 

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