フーチの源流を探して台湾の離島・澎湖島へ飛んでみた話。(その1)
フーチって知ってますか?
スピ系の人なら「知ってる知ってる〜」という方も多そうなんですが。
ネットで検索してみるといっぱい出てきます。それを眺めつつ・・・・えーと、どこから話を始めたもんかな?と軽く頭を抱えて2日経過しましたハヌルです。(前置き長い)
以前もチラっとつぶやいた気がするんですが、日本ではフーチというとダウジングとかペンジュラムの別名的なイメージっぽいですよね。ダウジングのイメージも、単純に道具立てでザックリわけると、棒的な物で行う系と、紐や鎖的な先に錘をぶら下げた物(ペンジュラム)で行う系とあると思うんですが、検索したところでは、フーチはペンジュラムを使用する方のダウジングの別名称になっている印象です。最近のペンジュラムは錘の代りに小ぶりのパワーストーンを使用してあったりして、その昔大きいオレンジなんかを刺して錘にしてたという時代と比べると、ずいぶん軽量化しましたね。(つい横道に逸れ始めちゃいますが、長くなるので今はここでストップ)
ダウジングでは、こういうL字ロッドや、振り子タイプなど色々使います
ところでフーチって日本語?
漢字では扶箕と書きます。元は中国語で、拼音は fújī。 つまり、フーチとはこれの日本語訛りの発音なんでしょうね。日本語のフーチの発音では台湾では通じないと思われます。小籠包だって日本人客に慣れてる店でもなければ「ショウロンポー」じゃ通じませんしね。高雄だと小籠湯包ということが多いです。(そもそもショウロンポーって何語読み?と思ったら上海語でした。)
閑話休題。
wikiを見るとこんなふうに書いてあります。
扶箕(ふき)とは中華圏で行われる占いの一種。20世紀初頭の清末期において扶乩(ふけい)がみえ、フーチとも称された。
「扶乩(ふけい)がみえ、フーチとも称された。」とあるんですが、この「乩」を「けい」と読むのは日本語の音読みの場合です。中国語の拼音では 「jī」なんです。つまり、「箕」と同じ読み方なんですね。つまりどっちも「チ」。同音異字ですから「フーチとも称された」ではなく、フーチと言われたでいいんじゃないかなーと、ちょっと思ってます。
扶箕をバラバラにすると「扶」「箕」
で、私は初めて漢字表記を知った時、そもそも「扶箕」ってなんじゃラホイと思ったんですね。表音なのか表意なのか?なーんやねーん!と。だって「扶箕」ですよ、「扶箕」。バラバラにしたら「扶」と「箕」です。「扶」の意味は、助けるとか添えるとか。「箕」は、まんま箕(み)でしょう。
もし、名前の漢字が意味通りなら、箕を使っていたと思われるわけですが・・・。
どうやって箕で占うの・・・?頭にかぶるの?今のダウンジングやペンジュラムの行い方とはずいぶん隔たった形状だけど???
いや、やはり、単に音で文字を当ててるだけで意味は無関係なのかな・・・麦当労でマクドナルド的なもの?? そもそも扶箕って「占い」だったっけ・・?
箕というとサンカを思い出したりして、無駄に謎が深まったハヌルです。
そこで、中国語のサイトを巡ってみたところ、見つけました!
説明によると、これに使用する箕は丸みがあるスコップ型のもので、上から突き刺してある棒は柳の枝で特に「柳筆」と呼ばれていたようです。置かれている台は大人の腰の高さほどの高さの台で、その上に鉄で作られた丸く大きなお盆を置き、お盆の上には特に細かく選別された砂を入れ沙盤としました。この箕の部分を目を閉じた二人の乩手が手を添えて持ち、神と通じると柳筆が動き出し沙盤に文字を書きだすのでした。
これを見ているうちに、以前岐阜県博物館で開催された「奇なるものへの挑戦 明治大正異端の科学」展に展示されていた、明治時代のコックリさんをふと思い出したり。
お盆の下に三本の足をつけて行うものなのですが、博物館で見た際には「へぇ、ずいぶん不安定そうだなぁ」と印象に残ったのでした。図録も購入したものの、今いる家の本棚にはなかったので、 上のリンクのページでご覧ください。
現在よく行われているスタイルはこんなかんじ
上の画像のような辮髪の人はさすがにいませんが、形式的には似た様子で行われています。
博物館界的台灣第一~「台灣扶鸞文化特展」開幕 重現扶鸞文化精髓 - 北台灣新聞網NTNews
使用されるものは上記のようなY字型の他にT字型、また筆型なども。
実は相当に奥深い世界だから話が終わりそうにない
そうなんです。これ、最初に、どこから話を始めたもんかなー・・と頭を抱えたと書いた通り、歴史的にも文化的にもとにかく・・広い深い話でして。しかも私の性格は寄り道しまくり枝葉出しまくり・・・・それを書いてるといつまでたっても澎湖島にいきつかない予感。
なので。
ここでは、フーチと言っても日本のスピ界隈で使われてるフーチとはちょっと違う世界なのかしらん?というとこだけわかっていただけたら有り難いです。
そうそう、台湾の宝くじ(統一發票)連続で当たっております
1月にこんな記事を書いたのですが、実は、実は。
台湾のレシート宝くじって2ヶ月に1度当選発表があるんですが。毎回毎回当たってるんですよ、これが。我ながらびっくりです。アプリを使う以前は・・・まともに調べてなかったので、もしかしたらその頃も当たってたのかしら・・と、ちょっと図々しいことを考えてしまったのですが。
今回の発表では3枚当選です♪ しかも1枚は1000元でした。嬉しい!
このことを別記事で書こうと思ったんですけども、文章を書くのが苦手なので、まとめてここに書いちゃいました。しかし、やはり財神様のおかげかなぁ・・?有り難いです。
アロマアナリーゼの本も当選しちゃいました。
以前、彩心香の山田先生にアロマアナリーゼを受けさせていただいたのですが、スピリチュアルと真逆の世界なのに、心の深いところにズバーンと入ってくるんですよね。それ以来ずっと気になってました。そんな「香りの心理分析 アロマアナリーゼ」の藤原綾子先生の著書がついに発行されまして!
発行記念のプレゼントに応募したところ当選!
サイン本を頂いちゃいました。嬉しいです♪
これも別記事にしたかったんですが(以下略)
拝読したら、中に山田先生のお名前もバッチリ掲載されてました。
アロマアナリーゼにご興味のある方は山田先生のブログをどうぞ。
さて。ということで。
続き物にはしたくなかったのですが、フーチの話、続いちゃいます。(ふぇぇ)
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台湾と岐阜と媽祖様と。
廟・・それは台湾の象徴たるもののひとつ
台湾を歩けば誰でも、そこかしこに廟があることに気づくだろう。歩かずとも、例えば桃園空港から台北市内に向かう車窓から、七色に彩られた華やかな屋根を見かけるのは簡単なことだし、宿泊ホテルのすぐそばに廟があるなんてことも珍しくはない。
高雄でもそれは同じことで、小港の国際空港からタクシーで中心部に向かう人なら、目的地にたどり着くまでに、ひとつやふたつ、目にするはずだろう。そして、廟を見た途端、(ああ、台湾に来たんだなぁ)と思う人も少なくないんじゃなかろうか。少なくとも、私はそうである。ビンロウの並木、プルメリアの芳しい香り、鮮やかなイルミネーション、どれも勿論すべて台湾らしいのだけれども、なんといっても廟を目にした時ほど、台湾にいる自分を実感することはない。
しかし、日本にだって道教の廟は存在するのである。
(横浜関帝廟 横浜中華街 - Wikipedia)
関帝も媽祖も、古くより篤く信仰を集めている神様で、特に媽祖様は海の女神ということから、台湾でも海に面したところや海の近くなどに古い廟があることが多い。海に囲まれた島国である日本では、様々な土地で姿や名前を変えてお祀りされてきた。
ところで私は岐阜の出身である。岐阜は俗に言う「海なし県」で、「岐阜人は海というだけで大はしゃぎ」と時に笑いのネタにされるほど、海にご縁がない。そのかわりと言ってはなんだが、岐阜にはたくさんの川が流れており、長良川の鮎など川における漁は古くから行われてきた歴史を持っている。そこで、ふと、海の無い岐阜でも媽祖様に何かご縁があるような物事があったのだろうか?と気になった。
・・・というとかっこいいのだけれど、日本にいる時に無性に廟に行きたくなる時がありまして。関東に家があれば横浜に、関西に家があれば神戸の廟に行くのですが、岐阜からはどちらも遠いので、近場にないかと検索したところ、愛知県の犬山市に関羽様をお祀りしているところが見つかったんですね。関羽さまがいらっしゃるなら、媽祖様もいらっしゃらないかなー、もし媽祖様に関するなにかがあれば、岐阜に居る時に行ってみたいなーと単純に思ったという、まあそんな話です。
昭和の時代、海無し県の岐阜に媽祖様が
この記事は横浜媽祖廟のために台南の天后宮から分霊が行われたことを知らせる2006年の記事です。記事の冒頭に「繼十多年前分靈到日本岐阜市後,國定古蹟台南市大天后宮媽祖今天再分靈到日本橫濱天后宮」とあり、最後に「大天后宮主委曾吉連說,這是大天后宮媽祖第二次分靈到日本,首次分靈是歧阜。」と再度書かれています。ざっくり訳せば「数十年前、最初に岐阜市に分霊が行われ、今日第2回目として横浜媽祖廟のために分霊が行われた」という事になります。
この第一回の岐阜市のために行われた分霊についてあれこれ調べたところ、台湾の国家文化資料庫内に保存されていた資料から、1969年5月2日に、岐阜から高橋夏三郎さんを代表とした8名の団体が媽祖様をお迎えするために空港に降り立っていることがわかりました。資料の写真には高橋さん一行が北港朝天宮の旗を持って飛行機から降りてくる様子が写っています。
日本へ向けて出発の様子(北港迓媽祖 より)
1969年5月6日、岐阜市分香団は御神体とともに一路日本へ。
・・・・ん?
北港朝天宮? 大天后宮では??
さっきの新聞では 大天后宮だったのですが、こちら資料画像(上に貼った画像とは別)
を見るとはっきり北港朝天宮と書かれています。
大天后宮?北港朝天宮?
北港朝天宮と大天后宮は距離も離れています。しかし、大紀元の記事では大天后宮の主委である曾吉連さんがそう語ったとはっきりあります。岐阜には朝天宮と大天后宮と二箇所から分霊が行われたということなのでしょうか??
北港朝天宮と岐阜については詳しい方が
Twitterでフォローさせていただいてる黒羽夏彦さんが、日本の媽祖様について調べておいでになり、朝天宮から分霊された媽祖様について、岐阜で現地調査を含め、ブログに詳細を書いていらっしゃいました。
学生時代、私は伊奈波通に住んでいましたので、七軒町などは目と鼻の先だったわけなのですが、岐阜も通りも今はすっかり様変わりしているので、当時の事を調べるのは少し難しそうです。ただ、高橋夏三郎さんとともに名前が出てくるもうひとりの高橋さんについては、同姓同名の方が現在もそこに名前があるようなので(私調べ)、もしかしたらお身内の方などがそこに住んでいらっしゃる可能性はあるでしょう。
台湾に帰った媽祖様
資料を確認すると、一度は岐阜にいらっしゃった北港の媽祖様は、1970年2月19日、高橋夏三郎さんを始めとする10人の日本人の手によって再び朝天宮へとお戻りになられていることがわかります。資料には10人と書かれていますが写真には9人が写っており、そこに一緒に写っている旗には、「日本朝天宮」の文字が見え、お迎えに来た時と同じ物のように見えます。この時の高橋さんの肩書は岐阜市朝天宮管理委員会会長となっていますので、当時、そのような委員会(またはそれに類するもの)が岐阜にあったことは間違い無いのでしょう。そして、なんらかの事情によって、岐阜でお祀りすることが難しかったために、台湾へ帰りになられることになったのでしょう。
そんなわけで、朝天宮の媽祖様と岐阜については、おおよその次第がわかったのですが、大正〜昭和の岐阜は非常にオカルティストが跋扈している土地でしたし、朝天宮にしても、大本教の二代教主に出口王仁三郎も訪れている廟ですので、実は思わぬなにかがまだまだ隠れているのかもしれません。
大天后宮の媽祖さまについては、今の所まだ謎の状態ですが、少しづつ合間を見て調べてみたいと思っています。
※一番上の画像は台湾最古の媽祖廟である、澎湖天后宮の方が写して私にくださった金面媽祖様(大媽,二媽、三媽)です。この廟の方には様々な事を教えていただきました。またぜひ訪れたいと思っています。
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